拓南神社の歴史(起源)

静岡県沼津市は、伊豆半島の中・西地区への玄関口として、また県東部の商都として戦前戦後を通し大いに繁栄してきました。しかし、第2次世界大戦中に、軍事拠点としての役割を果たした施設と少々違った役割を背負った施設があったことは、社会の教科書にも書かれず、市民の人たちにも知らされず、ひっそりと歴史の一コマに置き去りにされています。その施設とは「拓南神社」の起源となる施設なのです。

 

「大東亜省拓南練成所」

1941年(昭和16)4月、拓南協会(ニューギニアやパラオ諸島などの南洋地域で石油、ゴムなどの資源を開発する企業)は沼津に「拓南訓練所」を開設し、南洋地域の資源開発を指導できる人材の養成を始め、42年(昭和17)5月に第1期生を輩出しました。その後施設は、大東亜省の管理に移り、名称を「拓南練成所」と改称し、42年(昭和17)9月に第1期生を向かい入れ、以降練成所が機能した4年間に、ここを巣立っていった若者は千数百名となりました。しかし戦局は敗戦に向けての一途をたどり、民間人であった卒業生も ”われ南洋の防波堤たらん” と戦場で懸命に任務を全うしようとしましたが、はからずも300余名は、南方の各地で散華して行ったのです。

 

「終戦から現在」

戦後九死に一生を得て帰国した第1期訓練生は、南方から引き揚げてくる卒業生を迎えるため、訓練所跡地で生活をはじめました。その後、かの地で亡くなった300余名の御霊を慰めるため、懐かしいこの地に神社を建立したのです。当初神社は、現在のミニ公園より小径を数百メートル登った場所に作られましたが、この場所が、沼津市の自然公園に指定されたため、1974年(昭和49)11月、替地として現在の松沢川川岸に移転され、同時に”松沢の水神様”と”愛鷹山の山神様”お祭りすることとなりました。本年は、移転後40年目を迎えます。

 

 

 

 

 

 

参考文献(以下、写真にて紹介)

拓南万里波涛(拓南会事務局 昭和63年9月発行)

企画展図録 1931-1945沼津と戦争(沼津市明治資料館 2005年7月発行)

 

 

 

 

 

社殿から本殿を望む
社殿から本殿を望む
鳥居から本殿を望む
鳥居から本殿を望む
訓練所跡地の石碑
訓練所跡地の石碑